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旭川地方裁判所 昭和33年(わ)259号 判決

被告人 牧野吉太郎

大六・二・五生 漁撈長

牧野登志男

昭六・四・二生 船長

主文

被告人両名は無罪。

理由

第一、本件公訴事実の要旨

本件公訴事実の要旨は「被告人牧野吉太郎は留萠市港町三丁目四番地所在、宝洋水産株式会社所有の底曳網漁船宝洋丸(総トン数二十八・五八トン)の漁撈長、被告人牧野登志男は同船の船長であつたところ、両名は昭和二十九年三月六日午前三時頃、甲板長今野安太郎外十名と共に同船に乗組み、留萠港を出港して苫前郡天売島北方漁場に向つて進航中折柄操舵中の被告人牧野登志男の過失により同日午前四時頃留萠郡小平村字臼谷北西三浬の沖合において貨物約三十八屯を積載して留萠港から天売島に向け先航中の天売漁業協同組合所有の貨物船天祥丸(総トン数四十・三二トン)の右舷船首附近に宝洋丸の左舷船首附近を衝突させ天祥丸の右舷船首附近に破口を生しぜめたがその侭進行し、同日夕刻右天売島附近漁場において操業中、天祥丸が遭難した旨の無電放送を傍受するや宝洋丸の左舷船首部附近にも前記衝突によつて破損部分を生じていた為これをそのまま放置して留萠港に帰港すれば当然前記衝突事実の発覚することをおそれ両名共謀の上留萠港入港時に故意に同船を同港岸壁に衝突させて破壊し、以て前記破損箇所を隠蔽せんことを企て、同月七日午前八時過頃留萠港に入港する際被告人牧野吉太郎が自ら操舵して同船を留萠市明元町三丁目附近通称南岸の岸壁に向け直航させて船首を岸壁に衝突させ因て宝洋丸の船首材を折損させ且つ船首部附近のカイシングを失々左右両舷共船首より約三米の長さにわたり破損させ以て人の現在する同船を破壊したものである」というのである。

第二、昭和二十九年三月七日留萠港南岸壁に宝洋丸が衝突した事実

留萠市港町三丁目四番地、宝洋水産株式会社所有の底曳網漁船宝洋丸(総トン数二十八・五八トン)(旧称昭平丸、船長、被告人牧野登志男、漁撈長、被告人牧野吉太郎、甲板長今野安太郎外十名乗組)が天売島北方漁場から操業を終つて帰路につき、昭和二十九年三月七日午前八時過ぎ頃、被告人牧野吉太郎が操舵に当り、留萠港外港に到達、内港に入つて速度を半速に減じ、岸壁に平行して港内に進航、留萠税関支所附近で機関を停めて右折し、同市明元町三丁目同港一区南岸壁(前記税関支所前石段東端から東に約八・五米の間)に向つてほぼ直進し、接岸しようとした際、岸壁に船首部を衝突させ、これがため、船首材は継目附近から浮き上り、遊離して船体内方に屈折し、左舷側舷墻柱二本及びレール(手摺)が折損し、左舷側舷墻板レール下部及び船首から二米ないし二・三米の間にわたつて各所に破損を生じ、右舷側レールが舷墻縦通材から遊離するなどの船首部、両舷カイシングの破損を生じ、そのまま航行することは困難な状態に至り(因に修理に翌八日午後までの時間と費用一万五千九百円とを要した)航行機関としての一部機能を害するに至つたものである。

右の事実は、(中略)

第三、宝洋丸の岸壁衝突の動機

検察官は、被告人両名が宝洋丸を前記岸壁に衝突させたのは、同船が同月六日午前三時頃、留萠港を出港し、天売島北方漁場に向つて進航中、午前四時頃、留萠郡小平村字臼谷北西三浬の沖合において、留萠港から天売島に向け先航中の天売漁業協同組合所有の貨物船天祥丸の船首附近に過つて左舷船首附近を衝突させ、天祥丸の右舷船首附近に破口を生ぜしめたが、同日夕刻右天祥丸が遭難した旨聞知し、前記衝突によつて自船左舷部に生じた破損部分をそのまま放置して留萠港に帰港すれば自船が天祥丸に衝突した事実が容易に発覚することをおそれ、右衝突事故を隠蔽しようとして故意に、同港南岸壁に衝突させ、艦船を破壊した旨主張するのであるが、天祥丸との衝突による破損形跡隠蔽のみが唯一の動機であるとするならば、自船の乗組員の生命身体に対する多大の危険を招く虞のある程度の艦船の破壊まで意図するということはそれ自体撞着の感を懐かせるものであるけれども、右動機の点につきこれを証拠の上で検討すると、

(1)  前記天祥丸(総トン数四十・三二トン)は石炭約三十六トン、玉縄約八トン、綿糸・綿網・ロープトワイン等二屯、合計約四十六トンを積載して同月六日午前三時頃、留萠港を天売島に向け出港したまま消息を断つていたが同日正午過ぎ頃、同船の積荷とみられる玉縄、船具その他、他船のものとみられる魚箱約二十個等が留萠郡小平町海岸に漂着したので、留萠警備救難署(現留萠海上保安署)所属の巡視船「相模」臼谷漁業協同組合所属の漁船等によつて捜索が行われた結果、同月八日小平村沖三浬の沖合海面下約四十米の地点において沈没船体を確認し、潜水夫によつて捜査した結果、同海底にほぼ北方に船首を向け、僅かに右舷側に傾斜し、後部マストを折損し、前部マストリギン二本を切断して沈没している天祥丸船体が確認されるに至つた。

右の事実は、(中略)

(2)  然しながら、被告人等の乗組んでいた前記宝洋丸が、検察官主張の様に昭和二十九年三月六日午前三時頃、留萠港を出港し、天売島北方漁場に向う途中、同日午前四時頃小平村沖合において前記天祥丸の右舷船首附近に誤つてその左舷船首附近を衝突させたと認めるに足る証拠は存在しない。かえつて、

一、押収してある無線通信日誌二冊(証第三、四号)の存在

一、第八回公判調書中証人桜庭洋一の供述記載

一、受命裁判官の証人桜庭洋一に対する尋問調書

一、第四回公判調書中証人奥山宗吉の供述記載

一、奥山宗吉作成の漁業通信業務日誌のメモ五枚

一、押収してある給水領収書(証第一号)船舶給水台帳(証第七号)の各存在

一、被告人牧野吉太郎の司法警察員に対する供述調書三通(昭和二十九年五月二十二日付及び昭和三十三年六月二十三日付、同月二十五日付)

一、第四回公判調書中被告人牧野吉太郎の供述記載

一、海図(宗谷岬ないし小樽)(第四回公判期日において被告人両名が記入したものを含む)

一、受命裁判官の証人長谷川博一に対する尋問調書

一、同証人大久保福五郎に対する尋問調書

一、同証人会田勝次郎に対する尋問調書

一、同証人渡辺春治に対する尋問調書

一、第二回公判調書中証人越浦吉一の供述記載

一、伊藤三男の司法警察員に対する供述調書(同年七月十二日付)

一、同人の検察官に対する供述調書三通(同月十六日付、十八日付、二十一日付)

によれば宝洋丸は、昭和二十九年三月五日おおむね午前三時頃、留萠港南岸壁留萠市船舶給水所において、係員武石定一から一トンの給水を受け、被告人両名及び前記乗組員が乗り組んで、同日午前三時三十分、苫前郡天売島北方漁場に向け、出港し、留萠漁業海岸局との交信を保ちつつ、同日九時四十八分当時(都丸の中継による交信)三百六十七番海区において一回目操業、十四時十五分当時、三百八十一番海区附近において一回目操業、十六時三十四分当時、同海区において操業続行、十九時三十分当時、同海区において夜間操業、翌六日七時三十分当時、三百八十番海区に移動し一回目操業、九時五十五分当時、三百七十九番海区において一回目操業、十二時三分、三百九十一番海区において操業続行、十六時三十四分、十七時、十九時三十九分当時いずれも同海区において操業を継続し、翌七日午前三時操業を終り、帰港の途につき、同日午前八時過ぎ頃留萠港に入港したものであることが認められる。

(3)  もつとも、受命裁判官の証人武石定一に対する尋問調書(昭和三十三年十月十四日付)によれば、前掲給水領収証(証第一号)は、基本料金百円の外割増金五十円が附加されており、右割増は当時午後四時以降翌日午前九時までのいわゆる時間外給水を受けた場合附加せられるもので、午前零時以降午前九時までに給水を受けた場合の給水領収証の日付は前日付となる旨の供述記載があり、これとほぼ同旨の受命裁判官の証人田辺勝郎に対する尋問調書、越後隆志の検察官に対する供述調書もみられ、これらによれば宝洋丸が右給水領収証記載の昭和二十九年三月五日の午後四時以前に出港したことはあり得ないわけであるが、右証人武石を除く他二名は、現実に給水及び給水領収証の作成の職務にあつたものではなく、ただ右武石証人の言を聞知したに留まるものであるからこれに信を措くに足りないし、また受命裁判官の同証人に対する昭和三十三年九月二十八日付尋問調書には、同証人の前記供述記載と全く異り給水は同領収証記載の年月日当日である旨の供述記載がみられることよりして、他の証拠に照合対比すれば、右武石証人の前記供述記載はこれを信用するに価しないものである。

(4)  検察官は、右給水領収証及び右証人武石定一の供述記載(昭和三十三年十月十四日付)こそ信用すべきであつて無線通信日誌(前出)は措信するに足らずとして、(一)漁業海岸局は私的な存在であつて、無線局長、通信士は留萠底曳漁業協同組合の単なる使用人にすぎず、組合加入者の恣意にあまんじなければならないこと、(二)記録作成方式が過誤を生ずるおそれが少くないこと、(三)前記奥山宗吉作成のメモと齟齬があること、(四)給水領収証は公務所の記録であるのに対し、無線通信日誌は私的な漁業協同組合の使用人たる一私人の記録にすぎないこと、(五)爾後に他の記録と対照されることがないなどの点をあげているが、右(一)(二)(五)の各主張は単に一般的に虚偽の記入、誤謬の生ずる余地があるというにすぎず、他の証拠の存在を考慮すれば、右を以て前記無線通信日誌の前記関係部分の記載がたやすく誤であるとすることはできないし、又前記奥山宗吉作成のメモと一部記載の相違が見られるが、右メモの記載が正確であつて模写した原本の無線通信日誌が不正確であると断定する根拠に乏しく宝洋丸が昭和二十九年三月五日午前三時三十分出港し、同月七日まで操業を続けて帰港した事実については交信の時刻より推して齟齬はないのであるから、右メモとの一部記載の相異を捉えて右無線通信日誌の記載がねつ造もしくは誤謬であると認める理由はなりたたない。給水領収証は昭和二十九年三月五日付であつて、それが、地方公務員である武石定一によつて作成された文書である以上、その作成自体は信用に価することはいうまでもないが、時間外割増金が附加されている場合の給水時間に関しては、専ら前記証人武石定一外二名の供述記載にまつにすぎず、これが直ちに信用できないことは前記のとおりであり、他方無線通信日誌は公務員の作成する文書ではないけれども、電波法第六十条、同法施行規則第四十条、第四十一条等に則り、無線局において、備付、一定の方式、内容による記載、無線業務日誌抄録の郵政大臣への提出等を義務ずけられているものであつて、それが業務の通常の過程において作成されたものである以上、その記載は信用できるものであつて、これが信を疑わしめる特段の事情は何等認められない。又右無線通信は一日七回にわたり洋上の漁船と、その動行について交信し、これをメモに採つて日誌に記載するものでありその性質上、もしも出港日時の改ざんや、通信順序の誤記等があればそれはその記載の上から明瞭に判定できるものであつて、その改ざん、誤記等のないことは第八回公判調書中の証人桜庭洋一、同佐々木栄吉の各供述記載によつてこれを明らかに認めることができる。右認定を覆えすに足るような証拠は何もない。

(5)  押収してある木片(証第二号)が、宝洋丸の左舷作業燈笠の残存部分に符合することは前掲証人畑井喜代志に対する尋問調書、同証人佐藤藤雄に対する尋問調書、司法巡査作成の「破損船舶の撮影方につき復命」と題する書面及び写真八葉によつてこれを認めることができるが、検察官主張のように、右木片が沈没船天祥丸関係漂着物の中に発見されたものであることを認めるに足る資料に乏しく、これを任意提出した畑井喜代志はこれを自ら、天祥丸関係漂着物の漂着現場において、拾得したものではなく、前掲証人小川博に対する尋問調書記載によれば、「翌日(三月七日)又佐藤重夫と行つて海岸で木片を拾いました」「佐藤重夫が拾いました」と述べ、同証人佐藤藤雄に対する尋問調書によれば、「三月六日臼谷海岸に漂着物をさがしに行つた」「私はみていませんが佐藤重夫が拾つたと思います」その木片は「現場でみていません」「臼谷に行つた日畑井の家でみたと思います」旨の、又前掲証人佐藤重夫に対する尋問調書には「臼谷海岸に最初に行つた日(三月六日)に発見しました」「それが天祥丸の木炭箱の内に入つておりました」旨の各供述記載があり、その拾得の日時及び経緯は極めて明瞭を欠き、発見位置もまた確然としていないものであつて、これを以つて直ちに宝洋丸と天祥丸の沈没事故を関係ずける証拠とすることはできない。

(6)  検察官は、更に宝洋丸と天祥丸の衝突事故を結び付ける証拠として天祥丸関係漂着物中にあつたという舷門のさし板並びに魚箱を挙げているが右は何れも宝洋丸に属するものと確認できる証左なく、又同船が本件岸壁衝突前においてすでに同船の左舷側防舷材並びに船首部附近を損傷していたこと及び当時左舷船首部附近に天祥丸と同色のペンキが附着していたことを強調しているがこれを確認できる証拠は何もない。

(7)  被告人牧野吉太郎は昭和三十三年七月三日以降、被告人牧野登志男は同月七日以降(いずれもそれ以前は否認していた)当時の宝洋丸乗組員長谷川博一は同年六月二十八日以降、同大久保福五郎は同年七月三日以降、それぞれ、本件公訴事実と同一事実の一部又は全部を認めた司法警察員又は検察官に対する供述調書がみられ、検察官は、これ等被告人両名及び宝洋丸乗組員の各供述調書を以て、公訴事実の証明に供しようとするものであるが、これら供述調書を仔細に観察すると、いずれも供述当時からすでに四年以上を遡る宝洋丸の留萠港出港日時について、天祥丸沈没事故当日である昭和二十九年三月六日であつた旨の供述記載があるのであるが前記のように宝洋丸の出港日時が同月六日であつたと認むべき何等確実なる資料がなく、かえつて、同船が同月五日出港したと認めることのできる証拠の存在に照らすとき、これらが、宝洋丸の当時の出漁と、天祥丸の沈没とを結び付けようとの意図の下に行われた取調の結果齎された供述の疑があるのみならず(因に被告人及び当時の宝洋丸乗組員等の司法警察員による取調の当初又は公判廷においてはいずれも三月五日出港した旨供述記載がある)、最も重要な前提であるべき日時の正確性についてすでに誤を犯し、この誤つた事実を基礎とするこれら供述調書はその信憑性を欠くものと謂わざるを得ない。ここに、各供述調書について、個々の供述内容を抽出検討してみるに、前記長谷川博一の司法警察員に対する供述調書(昭和三十三年六月二十八日付)によれば、「船が傾いていたとか、何だとか、いい、ともかく、何か事故があつて、それで皆起きろといつて来たことは間違いありません。怒鳴つた言葉の小さいことまでは記憶しておりませんが結論的について左様な筋であつたと記憶します。普通の事故であれば起こしにくる筈もないし、起こされて出ない筈もありません。ただし寝ていた皆が起きて甲板に出たかどうか記憶にありません」「海水がカイシングから入つて来たといつているそうですが、それもよく憶えていません」「事故があつて、起こされても何も憶えていないのは、おかしいではないか、とのお尋ねですか、どうもそれ以上のことは覚えていないので言えません」「今になつて考えると、ワツチにいつた者が起こしに来なければ誰も起こしに来ないので、船長がワツチで起こしに来たのではないかと思う」とあり、又前記大久保福五郎の司法警察員に対する供述調書(同年七月三日付)には「船長に起こされて甲板に出たとき、誰がいたか憶えておりませんが、船とぶつかつたんだ。又丸太にぶつかつたんだというような話をしているのを聞きましたので何かあつたんだと思つた」翌日夕方近く「左舷でこわれた防舷材を吊り上げているのを見まして、私は前にさわいだのは、この事故であつたのだなあと思い、防舷材がこわれたにしては丸太では変だし、これは船と衝突したんだなと思いました」「甲板に上がつたとき、船影や船燈はみておりませんが、陸の燈りがみめており」と供述記載があり、今野安太郎の同年七月五日付検察官に対する供述調書中の供述記載も殆どこれと同様であつて、これらはいずれも経過内容の説明なくして漠然と相似た結論的事実の承認に止るものであり、供述者が自ら現実の体験に基かず、従つて具体的観察によることなくして取調官の誘導的質問のままに爾後的判断として述べているに過ぎないことが看取できる。被告人両名の供述も殆んどこれと同様であり、右の様な乗組員の供述が行われた後(今野安太郎の供述調書を除く)被告人牧野吉太郎は、同年七月三日司法警察員に対し最初に本件公訴事実と同旨の事実を認める供述をしているが、その冒頭には「当時の乗組員や病気の弟にまで苦労をかけていると思うと、私としてもそのままにしておく訳にはいかないので、当時の記憶をたどりながら申し上げます」とあり「天祥丸の乗組員だけでも助けてやれたという事を考え、夜もおちおち眠れない様なことがありました(中略)それすらしなかつたのは私がみすみす全員を殺したのです」と感傷を述べ、最後に「とにかく、いま頭が混乱して何から先に話したらよいか見当がつきません。一寸休ませて下さい気分が落着いたら又申し上げます。」とあり、これらの供述が前記のように現実の体験に基くことなく、只管取調官の誘導尋問に随従しようとするものである外取調官より強く同被告人の責任感情に訴えられたことによつて激しい興奮と混乱した精神状態下において供述が行われたことがうかがわれる。

(8)  被告人牧野登志男の同年七月七日付の司法警察員に対する供述調書も全くこれと同様で、冒頭に「実は私がこうした心境になつたのはただいま私の希望で兄貴の吉太郎に会わされて兄から直接にできたことは仕方がないのだし、ほかの乗組員も苦労しているのだからこの際本当のことをいつて責任者としての始末をつけて貰おうといわれたため、私も宝洋丸船長としてすべてを告白する気になつたわけであります」とあり、前記被告人牧野吉太郎の本件公訴事実と同旨の事実を一部自認した供述及びこれに続く供述が、被告人牧野登志男の供述に強い影響を及ぼしていることを示している。このように、被告人両名の前記供述調書は当初の一部を除き、公訴事実と同旨事実をほぼ自認したものであるけれども、被告人等及び前記宝洋丸乗組員の供述調書により認められるとおり通常宝洋丸においては二人で行われているワツチ(当直)が、他船に衝突させたという当夜にかぎり船長一人であつたというにもかかわらず、その理由は説明されず、衝突した相手船の状態及びその乗組員の言動等について詳述がなく、単に船尾燈又は墻燈、緑燈を見たというに止まり、前同供述調書中の、衝突した際自船が右舷側から海水が舷側を超えて侵入する程傾斜した旨の一致した供述記載は、鑑定人石山禎直の尋問調書中の、かような場合加害船が傾斜することは殆どあり得ず傾斜したとしても僅かである旨の記載によつて、その真実性は明らかに否定されなければならないものである。

(9)  本件公訴事実の最も重要な前提となる宝洋丸の出港日時についての被告人等の供述と、前記無線通信日誌の記載との相違について被告人牧野吉太郎の司法警察員に対する供述調書(同年七月十日付)には、「三月五日出港したと申し上げておりましたが、これは三月六日の間違いであります。ですから三月五日に出港したということを記載している書類関係は違うということになります」「私としては五日に出港したというのは嘘の記載だということがいえます。嘘の記載をすることになれば、留萠漁業無線局では係が勝手にやることはない筈です、そうなれば宝洋丸の関係者か又は宝洋水産株式会社の者が無線局の係に五日出港した様に記載してくれと申込んだことになります」「私は漁業無線局が宝洋水産株式会社の小沢三郎さんからでも圧力をかけられて六日の出港をごまかす為に五日に出港したことに作りかえられたものと思います」と検察官の主張と全く同一の供述記載がみられ、この何等の根拠に基かない同被人の憶測は、捜査官がいかに天祥丸の沈没と宝洋丸の出港とを関係ずけようとして、同被告人に対し強い誘導尋問を行い、同被告人の供述をして自己の予断と推測に合致させようとしたかをうかがうことができる。

(10)  昭和三十三年七月十九日釈放された前記宝洋丸乗組員大久保福五郎の同月二十四日付司法警察員に対する供述調書は、渡辺春治の同月二十二日付司法警察員に対する供述調書に添附されていたメモにつき(右渡辺の供述調書は証拠として提出されていない)「“これはうそでも言わなかつたら駄目だ”“俺もそうだ”“裁判にはつきりする”と書いたのは次の意味を含んでいます“これはうそでもいわなかつたら駄目だ”というのは渡辺が全然起こされた覚えもないし、天祥丸が沈没したということも留萠に来て始めて知つた、と私にいうので、もし係官にそんなことをいつたら、この事件を認めないため旭川刑務所に収容されたら渡辺のためにならないと思い、一応この場は多少の記憶違いはあつても起されたと云うこと位は話したらよいだらうと思つて書いた」との供述を記載し、前掲証人大久保福五郎、同長谷川博一に対する各尋問調書、第三回公判調書中証人木崎英雄の供述記載等がこの間の事情を物語つており、しかも第二回公判調書中証人山崎久之助の供述記載、前記証人木崎英雄の供述記載によれば宝洋丸乗組員に対する捜査は昭和二十九年三月、岸壁衝突事故発生当時捜査が開始されたが天祥丸に衝突させた証拠がないこと、無電で大工を依頼したのは舵のつけ根の故障であることがはつきりしたこと、岸壁衝突はテレグラフによる指示の誤か操舵上の過失とみられ、捜査は一旦打切られたが昭和三十一年木崎英雄が留萠海上保安署に配属になるや捜査が再開され、前記の様な取調が行われたことが明らかである。

(11)  第二回公判調書中証人柏木竹男の供述記載は、公判廷において、宝洋丸が公訴事実記載の日時頃他船との衝突があつたことを認めた唯一のものであるが、同人の証言は前記(2)の各証拠に照してこれを措信することはできない。

以上の諸点が明らかとなり、宝洋丸の行動と天祥丸の沈没事故との間には検察官主張のような関係があつたと認めるに足る証拠はなく、両船の衝突は結局これを認めることはできないものであり、従つて検察官の主張はその前提を欠き、他に被告人等において故意に宝洋丸を公訴事実記載のように岸壁に衝突させたと認めることのできる動機は全くこれを発見できない。

第四、被告人等の刑事責任

既に述べたように、検察官の主張する、被告人等の宝洋丸を留萠港南岸壁に衝突させた動機となつた事実が否定せられ、他に被告人等により右衝突が意図してなされたと認めるに足る根拠のない以上、すでに認定のとおり被告人等によつてなされた前記岸壁衝突による宝洋丸の船首部両舷カイシングの破損について、右が故意に行われたと認めることのできないことはいうまでもない。

しかして、第二記載のとおり宝洋丸の船首部両舷カイシングの破損が、船舶の航行機関としての一部機能を害するに至つたことは明らかであるが、検察官は右岸壁の衝突による宝洋丸の船体破損が艦船破壊に当るとの見解に立ちながら、宝洋丸は既に、岸壁衝突前洋上衝突によつて左舷防舷材、船首部附近に既に破損を生じていたと主張するのであるから、岸壁衝突それ自体によつて破壊を生じたものかどうか主張自体においてすでに撞着を感ぜしめるものであるが、それはさて措き、刑法上艦船破壊罪が同法第十一章往来を妨害する罪の章下に規定せられる公共危険罪であつて、そこに「艦船を覆没又は破壊」と併記されていることを考えると、接岸に際して船体の一部を破損し、航行機関としての一部機能を害した一事を以て直ちに右が艦船破壊に該当するものと断定することはできない。艦船破壊の罪が、勿論公共危険の具体的発生を要件としているものではないと解せられるが、「破壊」は「覆没」に比較して多くの態様が考えられるから、損傷の部位、程度と、それが人の生命身体に危険を及ぼすに足る程度の破損であるか否かを考慮して判断すべきものと考える。本件において、宝洋丸は船首部等の破損によつてこれを修補することなくそのまま航行、出漁出来ない状態にあつたとはいえ直ちに沈没を招く虞のある状態にあつたと認むべき証左なく、その破損はすでに航海を終つて、まさに停止接岸しようとした際に生じたものであつて、洋上その他航行中の場合と異り、航行機関としての完全な機能を保持しなければ乗組員の生命身体に危険を生ぜしめるおそれがあつたわけではなく、前記第二記載の証拠によれば、宝洋丸乗組員は同船が岸壁に衝突破損したこと自体に、自己又は他の乗組員の生命、身体に危険を感じたり、或はそのための回避の措置をとろうとした形跡は全くみられず、破損したデリツクが使用不可能になつたため、これが使用を除いては平常と変りなく直ちに漁獲物の荷揚げ作業を行つた程度の損傷にすぎなかつたことを認めることができるのである。

右認定によれば、本件岸壁衝突による宝洋丸の船体の一部破損は未だ人の生命身体に危険を及ぼすおそれはなかつたもので、公共危険罪としての法益侵害行為があつたと認めることはできず、従つて前示、いわゆる艦船破壊に該当しないものというべきである。はたしてそうであるとするならば本件宝洋丸の船首部、両舷カイシングの破損は刑法にいわゆる毀棄罪としての「艦船損壊」に該当するにすぎない。尤も右にいわゆる艦船とは人の現在しないことを要するとするものもあるけれども前記説示に照らして何等理由のないことである。そして右の損壊が被告人等の故意によりなされたものといえないことは、前記認定のとおりであり、過失に基く船舶損壊の所為についてはこれを処罰する法条が存在しないのであるから、被告人等において船舶損壊の故意なき以上それが被告人等の過失に基くか否かを判断するまでもなく、本件は何等罪とならないものというべきである。

よつて刑事訴訟法第三百三十六条に則り、無罪の言渡をする。

(裁判官 星宮克己 立沢秀三 渡辺卓哉)

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